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昭和24年生まれの私は、30年に小学校。昭和の「いぶき」を感じて育った、そう、団塊の世代です。何になりたかった?あの頃、男の子とたちは、「電車の運転手」とか「パイロット」とか、言っていた時代だったと思います。私は、「歌手」だって、恋心いだいていた敏明君(こんな名前だったかな?)が、「パイロットになりたい」って言ったので、私は、「敏明君の飛行機に乗って巡業?する歌手になりたい」なんてことを言っていたと思います。それから、歌手とは全く違う道を歩んで、今なにを..............それから、敏明君は、今なにを...........敏明君のお母さんが、とても上品で優しかったのを覚えています。面白いことを覚えているのですね。私は、学校で敏明君よりずっと成績がよかったので、ちょっと引け目を感じていました。しかし、小学校でいくら私のように成績が良くても、人生という場では、だめでしたからねえ.............
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博物館にあったおもちゃや玩具。玩具の中に、「けん玉」や「羽子板」それから「パッタ」......一緒に行った和美さんは「九州ではパッチって言った」と言っていました。このごろの子供はあんなものでは遊ばないんでしょうね。私は、「女のくせに」パッタ好きだった。失敗すると、叩かれるのですよ。つばをつけて.........確か、それを、パッチンとか何とか言っていたけど、忘れました。唾つけて叩かれるの.........汚いですよね。それが、バツだったかも.................................それから、私が行っていたのは、「一銭みせや」近所の「まさこちゃんちの一銭店や」に行きました。ごめんくださーいと言うと、暗い店の中から「まさこちゃんちのおばちゃん」が出てくる。着物来てましたよね、確か。「するめ」とか、せんべいに、ソースつけたものとか、食品の安全とかいうものはほとんど考慮されていなかった.....テーブルというか、食卓も、縫物するテーブル(なんというのでしょうか)も、皆、とても低い。こんなに低かったんだとあらためて驚きました。外国が長いと特にそう感じます。
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懐かしかったのは、はいちょう。網がはってある戸棚、
そして、冷蔵庫。つまり、氷の入った冷蔵庫。自転車で、冬は「炭や」に、夏は「氷」を買いに行ったと思います。
というように、どんどんどんどん、昔のことが思い出されて...............とても嬉しかった!
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夜は、ニューオータニホテルに、社台グループの謝恩会に行きました。1500人近くの人が集まっていました。「社台グループの馬ではありませんでしたが、もう少しで、あの凱旋門賞が日本馬の手に入るのではないかと思った時、感激しました」とグループ総大将の照哉さんが述べられて、さらに、勝己さんも「世界への挑戦」を宣言されました。そうか、彼らはもう日本ではしつくした。あとは、世界しか残っていないのですね。つまり、ダーレーや、クールモアが世界に出たように、今度は社台グループが、世界に挑戦.................ブリーダーズ、凱旋門、ワールドカップ.....
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下の娘、お代官様の「誕生日」は無事に終わったようです。上の娘がクインズランドから、シドニーまで飛んで行って、彼女と一緒にデラックスな「スパ」に行ったらしい。「すごく良かった」と言っていました。それから、私が1万円かけて送った「アラキー」の写真集を、お代官様は「すごくよかった。お母さんって私の趣味知らないと思ったけれど、時にはあたることもあるのね」と、まあ、お喜びいただきました。上の娘も、主人とけんかせずに(実は、大変心配していたのです)何とか、クインズランドまで「お戻りいただきました」ほっ。考えてみれば、私がいなかったことが、「よかった」のかも。私は彼らの間で、いつもおどおどしていますからねえ。日本でロックンロール踊っていた方がいいのかな。
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