ようこそ!ハイランド真理子のブログです。

オーストラリア在住。団塊の世代。海外の競馬や犬事情も含んだ日記です。

BALIBOを観ました。

今日は、土曜日。夜から朝方にかけて、主人の背中と腰の痛みがひどく、何度か温パックをあてていたようですが、結局早朝になってやっと眠りについていたようでした。私はと言えば、夜中ほとんど蕁麻疹の痒みもなかったのが、早朝になって、痒みが出てきたのと頭痛があって、やっぱり朝早く起きてしまいました。二人で何とかうつらうつらと、眠りかけたところに電話がなりました。主人を起こしたくなかったので、そっと起きて電話をとりました。主人の兄からです。彼はメルボルンにいます。「お母さんが、今朝方、病院に運ばれた。今回はかなり悪いようだ。病院についてからまた電話をする」と言って電話をきりました。なるべく主人を起こしたくなかったのですが、主人は目を覚ましていたので、電話のことを伝えましたた。それから、何時間か、彼の兄も弟の電話もつながらなくなったのですが、後に、電話では、そう深刻なものではないということが分かり、ホッとしました。



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昨夜、AFLの試合のことで母と電話で話したばかりなのです。衛星放送では何時に試合があるのか。どのチャンネルなのかと、母は主人に聞いてきました。主人と母は同じチームを応援しているんです。昨日、あんなに元気な声をしていたのに….でも、私が主人に代わって母と話をしたとき、「元気だった?」って聞いたら、「いや、そうでもなかったの。二週間前も病院に入ったし。出てきたばかりなんだけれど、体力に衰えがみられるわ」っていたっけ。仕事の仲間でいつもお世話になっている中野さんのお母様も最近92歳で逝去されました。(合掌)覚悟はしていたけれど、やっぱりショックですっておっしゃっていました。母に何かあったら、うちの主人もかなり打ちのめされるはずです。主人が、やっぱり会いに行こうかなと....ぜひ行ってあげて欲しい。

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今日は、午後から、主人が昨日借りてきたDVD、BALILBOを観ました。何の映画か分からなかったのですが、東チモールを巡って、インドネシアの占領が始まった時代にオーストラリアの5人のジャーナリストとそれを取材したもう一人の著名なジャーナリストが殺戮された事件をテーマにしたものでした。5人は、東チモールの現状を取材に行ったオーストラリアの若いテレビジャーナリストたち。正義感と、危険を冒しても真実を伝えようとするジャーナリストとしての魂を持ち合わせていました。

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大変恥かしいことですが、実は、私は東チモールのことをほとんど知りませんでした。現在の大統領で、ノーベル平和賞をとったベロ司教やジョゼ・ラモス・オルタのことは知っていましたが、東チモールはなぜ孤立無援で戦ってきたのか。オーストラリアを始めとする国際社会はなぜ、彼らを助けなかったのか、私は全く知りませんでした。主人が「第二次世界大戦のときに、東チモール人たちはオーストラリア人を日本軍から守った。しかし、オーストラリアは、東チモールを助けなかった」と言いました。

東チモールについて調べてみました。


ティモール島は16世紀にポルトガルによって植民地化された。その後オランダが進出し、一時はポルトガルがこれを撃退したが、1859年に西ティモールをオランダ領として割譲し、ティモール島は東西に分割された。ポルトガルが中立を守った第二次世界大戦時には、オランダ領東インド地域と合わせて日本軍が占領したが、日本の敗戦によりオーストラリア軍の進駐を経てポルトガル総督府の支配が復活した。
1974年にポルトガルで左派を中心とした革命が起こり、植民地の維持を強く主張した従来の保守独裁体制が崩壊すると、東ティモールでも独立への動きが加速し、マルクス主義色の強い東ティモール独立革命戦線(FRETILIN,フレティリン)がその中心となった。この動きは、東ティモールの領有権を主張し、反共主義を国是とするインドネシアのスハルト政権にとっては容認できず、反フレティリンの右派勢力を通じた介入を強化した。

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1975年、右派勢力と連携したインドネシア軍が西ティモールから侵攻を開始する中、11月28日にフレティリンが首都ディリで東ティモール民主共和国の独立宣言を行った。しかし、直後にインドネシアが東ティモール全土を制圧し、1976年に27番目の州として併合宣言を行った。国連総会ではこの侵略と不法占領を非難する決議が直ちに採択されたが、米・欧・豪・日など西側の有力諸国は反共の立場をとるインドネシアとの関係を重視し、併合を事実上黙認した。

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スハルト政権は東ティモールの抵抗に対し激しい弾圧を加えたため、特に侵略直後から1980年代までに多くの人々が虐殺や飢餓により命を落とした。インドネシア占領下で命を失った東ティモール人は20万人にのぼると言われている。フレティリンの軍事部門であるファリンテルは民族抵抗革命評議会 (CRRN) の主要メンバーとなり、シャナナ・グスマンが議長になったが、インドネシア政府はグスマンを逮捕し、抵抗運動を抑え込んだ。その一方で、1996年にはノーベル平和賞が現地カトリック教会のベロ司教及び独立運動家のジョゼ・ラモス=オルタに贈られた。

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1998年にインドネシアでの民主化運動でスハルト政権が崩壊すると、後任のハビビ大統領は東ティモールに関し特別自治権の付与を問う住民投票を実施する事で旧宗主国のポルトガルと同意した。
2002年5月に独立した時点で、東ティモールはもはやインドネシアの外交問題ではなくなったようにみえるが、実態はそうでもなさそうだ。31年前、インドネシア国軍による東ティモール侵攻の年に起きたジャーナリスト殺害事件の裁判が今月初め、オーストラリアのシドニーで開かれ、「インドネシア国軍特殊部隊が殺害した」という証言があった。事件ではオーストラリア人カメラマンを含むジャーナリスト5人が殺害され、発生場所の名前から「バリボ事件」と呼ばれている。裁判では今もインドネシアの有力政治家であり、ハビビ政権で情報大臣も務めたユスフ・ヨスフィア氏の名前も上げられた。

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 5人のジャーナリストは「インドネシア国軍と東ティモール独立戦線の銃撃戦に巻き込まれて死んだ」とされている。しかし、当初からインドネシア国軍の関与が噂され、真相を求める根強い活動が続けられてきた。2000年にはオーストラリアで『バリボの死、キャンベラの嘘』という本も出版された。「インドネシア軍による事件で、しかも当時のオーストラリア政府が隠蔽に加担していた」という説を主張しているという 。


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どの国にも、知られたくないブラックな部分があったのですね。26年前に私がオーストラリアにやってきたときには、世界中の戦争を避けてやってきた人々を受け入れる素晴らしい国だと思っていたのですけれど。

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今日の午後、主人がちょっと出かけている間に、私は、自分のコーヒーとサンドイッチを作りました。P1060541.jpg
サンドイッチは、ゆで卵に、サラミソーセージ、それに私の育てているバジルをのせました。P1060542.jpg
シンプルな味。美味しかったよお。自分で作ったんだから!Very Proud of Myself!!
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