ようこそ!ハイランド真理子のブログです。

オーストラリア在住。団塊の世代。海外の競馬や犬事情も含んだ日記です。

1982年4月2日



日本では恐らくフォークランド諸島と訳されていたと思います。
ふと、気がついたら、昨日は4月2日。
写真の灰皿は、このフォークランド諸島、つまりアルゼンチン人が
イスラス・デ・マルヴィナスと呼んでいた
マルヴィナス諸島を、アルゼンチンが占拠し、
イギリス系を追い出したことを記念して売られていた
ものでした。
私はこの1982年4月2日に、ブエノス・アイレスにいました。


当時は、軍事政権で、独裁者の
ガルチエリ大統領が、
疲弊する経済状態を隠そうと、
軍事行動を起こし、一時的に
国民の支持を得ようとしたのでした。
まあ、どう考えても、マルヴィナスは、
アルゼンチンの近海にあり、英国領と
いうのは、ちょっと無理があります。
娘が行っていた幼稚園では常に
国歌斉唱が行われ、マルヴィナスの
歌も歌われていました。
あの島は長い間、アルゼンチン人が
「失われた妹よ」と歌い、恋焦がれていた
島でした。


サッチャーの時代です。
英国は、軍艦も出し、島に特殊部隊も出動
させていました。
英国は、アルゼンチン本土も襲ってくると
いう噂がたち、ブエノス・アイレス爆撃に
備えて、私たちは、蝋燭を用意していました。
この戦争が始まったすぐに、
イギリス人から来ていた友人が、夜電話をかけてきて、
会ってさよならがいえない。今晩急に
発つことになったから。長く話も出来ない。
盗聴されている可能性もある。
..........
続いて、アメリカから来た友人夫妻も、
急遽、アルゼンチンを出奔しました。
日系のアメリカ人で、日頃から「私は日本人嫌いよ」と
言っていましたが、彼女は私にはとても
優しくしてくれました。英語の仏典をプレゼント
されたこともあります。
彼女とご主人はCIAだったのではないかと
噂が立ちました。


当時は、毎日、ラジオで番号が読まれていました。
これは徴兵の番号です。
母親達は、自分たちの息子の番号が
呼ばれないように祈りながら、ラジオを
聞いていました。
悲しい話もたくさんありました。
知人の話でス。二人の息子が徴兵された。その二人の
乗った船が、英国に撃沈されてしまった。
..........
そして、うちの娘の面倒をみてくれていた
ノーラの息子もついに徴兵されました。
彼女は未亡人で、娘と息子がいました。


彼女は病気になりました。
最初は、心労かと思ったのですが、
実は、深刻な病気だったので、
戦場に送られた息子は、
返されました。彼は、パタゴニアに駐屯して、
マルヴィナス島に送られる寸前でした。
息子が戻ってすぐ、彼女は亡くなりましたが、
息子は助かりました。
私は、彼女が、自分の命の代わりに息子を
救ったのだと感じました。


街角で千人針ならぬ、千人編み物を
している女性達がいました。兵隊達に
セーターを送ろうというのです。
毎日テレビで、「勝っている」アルゼンチンの
ニュースばかりでした。
...........
国民は飢えていましたが、
戦争は一時、彼らの心に希望の灯をともしました。
灯はすぐ消えて、アルゼンチンは降伏しました。


私は、あのときのアルゼンチン人たちの、
心の高揚と、大きな失望感を忘れることが
出来ません。
戦争が起きる数日まで、
カサ・ロサーだ(ピンクの宮殿)と呼ばれる
大統領官邸に向けて大きなデモがありました。
そのデモに向けて警官隊はガス弾を発砲し、
多くの人が逮捕されました。
私は、アパートの上からそれを見ていました。
...........
そして、数日後、戦争が起きました。
今度は、政府を支持する大きなデモがありました。
反政府。そして、今度は政府支持。
.........
アルゼンチンの人々の混乱した気持ちが
伝わってきました。



1982年。4月2日。
地球の反対側、アルゼンチン、ブエノス・アイレスで、
私も、未婚のまま子供を抱え、先が見えずに、
大きな失望感を持って暮らしていました。


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