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ようこそ!ハイランド真理子のブログです。

日豪の間を行ったり来たり。膵臓のないアラエイト。仕事もフル回転。

音楽と私の人生 その1

私と音楽はきっても切り離せない。
70過ぎの今まで出会った音楽のことを書けば、
それだけでも一冊の本になってしまうほどだ。

私は、なぜ、音楽に囲まれていたのか。
なぜ、音楽と私の人生は切ってもきれないのだろうか。
それは、子供のころからいつも様々な音楽に囲まれて暮らしていたからである。

別に音楽家の家に生まれたわけではなかったが。
父と母が音楽が好きだったこともある。
仙台という田舎にいたにしては、二人とも、ハイカラであった。

父は、手作りで昔電蓄といわれるプレーヤーを作り、
バイオリンのクラシックを聴いていた。
ハイフェッツのチゴイネル・ワイゼンが彼の大好きだった曲。
私も、この曲を聴くと、胸が熱くなってしまう。
父は、よく草笛を吹いてくれたことがある。
もしかして、城ケ島の雨。雪の降る街をだったかもしれない。
草笛の音は素敵だった。

父は8人兄弟の一番下だったので、一番上のおばさんの息子の敏お兄ちゃんは
、かなり私の年上だった。その彼は、ラジオや器械が好きな人で、
歌が好きだった私をかわいがってくれて、
「真理ちゃんの歌をレコードにしてあげる」と言って、私が歌ったものを
レコードにしてくれた。
歌は、忘れもしない。。。タヌキの赤ちゃん。
たんたんタヌキの赤ちゃんは、やっぱりおなかが大きくて、
ぽんぽこぽん、ぽんぽこぽん。。。自分の声をレコードで聴くのは不思議な気がしたものだ。
今でも人前で歌いたいと思うのはこのせいかも知れない。

母も音楽が好きだったのだと思うが、どんな音楽を母が好きだったのかは覚えていない。
私かはこれが好きだといわなかったからかもしれない。
ただ、彼女に連れていってもらった私の初めての洋画、菩提樹は、
確か、ウイーン少年合唱団の歌だったかもしれない。
彼らが仙台に来た時には、連れて行ってもらった。

彼女は、ダンスが好きだった。
小学校の教師だったが、フォークダンスも体育の授業で教えていたし、東北大学の生徒たちにも
ダンスを教えていた。
ある時、私に、真理ちゃん、素敵な人がいるのよ。
東北大学の学生で、酔っぱらうと、バラを抱えきれないほど買って、
夜の街を歩く人たちに歌を歌いながら配るの。
ああ、素敵な人だなって、子供心に思ったものだ。
そんな人に出会ったら、今でも恋をしそう。

母は、父と二人で、小さな家で、タンゴを踊っていたのを覚えている。
部屋をいくつか突っ切って、右から左にダンスをして動いていた。
タンゴは、藤沢蘭子が、当時は有名だった。
それから、何十年も経って、アルゼンチンに行ったときに、
タクシーの運転手から、RANKOは、元気かねって聞かれて、
父と母のことを思い出したものだった。

小学校で「大きくなったら、何になりたいですか」という作文を書かされた時に、
歌手になりたいと答えて記憶がある。なれなかったけれど。
今でもなりたい(苦笑)

私は、小学校に入り、東北放送の合唱団で歌い、
小学校の合唱団でも歌っていた。合奏団にも入って、
アコーディオンを弾いていた。
小学校の合唱団で、全国コンクールの宮城大会に
出たときに(何位になたのかは覚えていないけれど)、
あの時に歌った歌、秋は秋はくるよ。白い馬にまたがって。。まだ歌えるな。
鈴木先生の、タクトの動きも覚えている。鈴木先生が指揮をする合奏団では、
確か、、モルダウを弾いていた。
フォルテ。フォルテッシモ。先生のタクトが目に浮かんでくる。

中学校。キリスト教の学校。
毎日の礼拝。讃美歌。
大好きだった。こころをしずめて歌う讃美歌。
祈りながら歌う讃美歌が大好きだった。

考えてみれば、歌のない、音楽のない人生の瞬間は私にはなかったかもしれない。

アルゼンチンでの生活。
夢を求めてったはずのアルゼンチンで、私を待っていたのは、
暗くつらい日々。
自分で歌うことはなかったけれど、タンゴはまさに、私のあの時の日々を映していた。

愛。裏切り。

タンゴは、嘆きの音楽であった。


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