ようこそ!ハイランド真理子のブログです。

オーストラリア在住。団塊の世代。海外の競馬や犬事情も含んだ日記です。

私は人種差別主義者?中国の人のことについて。

昨日、クインズランド出張を終えて
シドニーに戻りました。
クインズランド、ブリスベンに住むVICKI BENNETTの
ワークショップを受けに、日本から美江さんがいらしからです。
私は、長い間、VICKI BENNETTの本のエージェントをしていて、
日本で、既に5冊の本を出しています。
しかし、彼女のメッセージは、どうしても、現実として伝えることが
必要だと思っていました。つまり、誰かが、理想的には
VICKI自身が彼女のメッセージを伝えることが必要だと
思っていたのです。しかし、英語の壁、国の壁があり、
なかなか実現しませんでした。
それを、何とかしようと思っていたときに、美江さんに会いました。
美江さんは、早速、オーストラリアにやってきました。

この話はまたいずれ、お話したいと思います。


さて、昨晩のこと。
ゴールドコースト空港で、
非常に複雑な人種どうしの
交錯がありました。
それは、オーストラリアではよくあることで、
1つの家に、様々な人種が交錯しているからです。
うちの家族も、主人の一番上の姉が英国生まれのオーストラリア人。
二番目が、イタリア生まれのオーストラリア人。三番目の主人が
私、日本人と。そして主人の弟がオランダ生まれのオーストラリア人と
結婚しています。こういうことはよくあることです。


でも、昨夜は、少しテンション(緊張のある形で)として
起こりました。
まず、出発時間が近づいていました。
私は、そばに立っていた白人の女性に
「飛行機は遅れるのですかね」と聞きました。
普通は、にっこりと笑顔が戻ってくるのに、
昨夜は、非常に冷たい声で「べッグユアパードン?(
なんですか)」と返ってきました。つまり、あんたの英語が
分からないわよ。何よ。という感じでした。
そこで、私は、正しい?英語でもう一度聞きました。
と、彼女は、「さあねえ。わからないわ。きっとそうでしょう」と
いい加減に答えました。あら、なんだろうと思いました。
オーストラリア人は普通、大変親切なのに。


と、人々が並び始めました。
私も並びました。
私が並ぶと、
ぞろぞろと、中国人の女性達が
並び始めました。大きな声を出して
中国語で喋り捲っています。つまり、まくっていました。
それだけではなく、私の後ろから押すのです。
平気です。
そこで、私は振り返っていいました。
「すみませんが、押さないでください」
分かったのか分からなかったのか分かりません。
彼女は押すのを止めました。
列の間を人々が「エクスキューズミー」と言って
通っていくので、私は、隙間を開けました。
中国人がまた押してきます。
と、先の白人の女性が、
私たち?に向かって「ここは通路だから空けるように」と
言いました。私は下がりました。すぐ後ろにいる
中国人は押し返します。
と、中国人の何人かが、
私の顔をみて、「こいつは、馬鹿だ。変な奴だ」と
言っているように、へんな顔を作って、私をあざ笑うのです。

.................
と、今度は、アラブ人のような男性が、通ります。
そして、私に「エクスキューズミ。中国人の馬鹿もの」と
言って通り過ぎました。私は、立ちすくみました。
追いかけて、何か言ってあげようとしましたが、
止めました。


そのうち、搭乗時間が来て飛行機にのりましたが、
あの中国人のグループと一緒になりませんように、
ひたすら祈っていました。
席に座りました。
と、アジア人がきます。中国人?
どきっ。
と、その女性は英語で「すみませんが、そちらの席に
行ってもいいですか」と丁寧に聞いてきました。
「もちろんです、今席を立ちますから」と英語で答えました。
この中国人は、香港の中国人だろうか。台湾だろうかと
考えました。彼らは、メインランドの中国人を差別している
節があるのです。彼らはマナを知らない人たちだといって
いるのも何度も聞いたことがあります。


飛行機を降りました。
と、さっきまで私の傍に座っていた女性が、
友人の女性と日本語で話しています。
あっ。
彼女は日本人だったのだ。だから、マナーがよかったんだ。


私は、20年ぐらい前に、お行儀の悪い日本人観光客をやビジターに
会ったことがあります。とても恥ずかしかった。
だから、中国人を非難できないと思ってきました。
でも、今回は、彼らがとても嫌だった。
この前、メルボルンに行ったときにも、
「ここは、カフェです。公衆のトイレではありません」と
書いていあるところに、多くの中国人観光客が
詰め掛けていました。
彼らは、そのカフェの客ではありません。また、水の少ないところなので、
トイレに紙を捨てずに、そばにある入れ物にいれてくださいと
ありました。私は、トイレから出てきて、
長蛇の列を作っている中国人観光客に、
「紙は捨てないのですよ。分かりますか?」と言ったら、
彼らは、ポカーンとした顔をしていました。
余計なことを言ったのでしょうか。


私は人種差別が大嫌いでした。
お婆ちゃんが、私の座り方が悪かったときに、
朝鮮人のようだといったことばが大嫌いでした。
私は自分が人種差別主義者ではないと思ってきました。
しかし、昨日の晩の出来事は、私を、一瞬、人種差別主義者に
しました。
願わくば、私が継続的な人種差別主義者になりませんように。
中国の人たちがもっとマナーを守り、世界の人たちから
もっとリスペクトされますように。



私はオーストラリアに30年近くいますが、このような嫌な
経験をしたことがありません。あったのは、一度だけ。
公園で、お前達アジア人はここには必要ないといわれましたが、
それがスペイン語だったので笑いました。私はスペイン語がわかり、
彼らは南米から来たのだと分かったからでした。
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堂本さんとの出会い

堂本さんとは、和歌山の観音山フルーツガーデンで、出会いました。
フルーツガーデンの中のスカイガーデンで。
この日は、観音山5代目の児玉さんに、バーベキューと
音楽会を私のためにご用意いただき、その楽しい会で
私は堂本さんに出会いました。


彼は、72歳。25歳のときに全盲になったのだといいます。
いえ、それは、後で、お聞きしたのですが。
「僕は、死ぬまで一度オーストラリアに行ってみたい」
「えっ、そんなにお若いのに。死ぬまでだなんて」
「いえ、僕はもう72歳ですよ」
「そうですか。40歳にしか見えませんね」
「ぜひ、オーストラリアにきてください」
といいながら、一体彼に何を見せてあげたらいいのだろう。
一瞬、不安が頭をよぎりました。
が、いい加減が私の売り物。
大丈夫だ。必ず、彼に喜んで貰えることができる。
と思ったのでした。
P1000562.jpg


それから、すぐ、観音山フルーツガーデンの
児玉さんが、4月にオーストラリアに来ることになりました。
というか、私が決めたというのが正しい。
「オーストラリアに来てください」
「はい、いつ行ったらいいですか」
「そうですね。4月でしょうか」
なぜなら、4月には、シドニーで農業ショーがあるから。
というわけで、児玉さんが来ることになりました。
そして、堂本さんも来ることになりました。


このグループには、フルーツアートクリエーターの方々も
同行することになり、
どうしたら、全員の方々に喜んでいただけるツアーになるのか。
やはり心配でした。
検索したり、電話したり。
いつものように、日程が決定したのは、
最後の最後でした。私の試験はいつも
こんな感じです。原稿もそうです。
最後になるまで決まらない。


堂本さんには、色々なことに挑戦してもらいました。
お年寄りだけが集まるジャズクラブで、
ダンスをさせちゃいました。
植物に触ってもらいました。
オーストラリアには、バスキング
(大道で芸をしている人たち)をしている人が一杯いて、
ビーチでも、町の中でも
音楽を聴くことができました。

小鳥の声。潮騒。潮風。フィッシュ&チップス。
珍しい果物。おしゃべり。バスに電車。子供の声。
草の上に寝転んでもらったり、ひいては
走らせちゃいました。堂本さん、急いで急いで。


堂本さんの弾くハーモニカにオーストラリアの人たちは
聴き入りました。涙を流している人たちもいました。
堂本さんが、最後の夜にいいました。
僕に一言言わせてください。
「僕は目が見えなくなり、僕の人生には
いいことがなかった。今日までは」
って、涙を流して言われたときには、
私も涙が出ました。
堂本さんのめがねの奥から
涙が滝のように流れてきました。
彼が一番好きな曲は、ブラームスの子守唄だといいました。


出発前、私は、私が役員をする
ディンゴ基金に皆を連れていきました。
ディンゴは狼と犬の中間に存在する動物です。
農民に、害獣と嫌われ、今ではほとんど
純粋のディンゴが消滅しつつあります。
私は、そのディンゴを助けるこの団体に属しています。
負け犬。私がそうです。
このディンゴが、堂本さんがハーモニカを弾くと、
いっせいに歌いだしました。
あたりには、ディンゴの遠吠えが響き渡りました。

歌の翼に



久しぶりにVICTORIA DE LOS ANGELES
ビクトリア ・デ・ロスアンへレスのCDを聴きました。
これは、日本の友人、FUさんがずっと昔に送って
くれたものです。
上の娘の名前に、DE LOS ANGELESが付いているので、
「娘さんと同じ名前よ」と彼女が送ってくれたもの。
スペイン生まれの声楽家。
今まで聴いただれよりも、透き通って
素晴らしい声の持ち主です。


彼女の歌の中でも最もすきなのが、
「歌の翼に」。
メンデルスゾーンの作曲。
歌詞はドイツ語です。


彼女の歌声を聴くと、
宗教を持たない私でも、
やはり、どこかに創造主がいるのでは
ないだろうか。どこかに、
天国というものがあるのではないだろうかと
いう気がします。
でなければ、この音楽は、
どこから出てきたのだろう。と。


掃除しながら聴いていて、
昨日、ソファに座ったら、
つい、この曲をハミングして
しまいました。
そしたら、主人が
That's nice!
え、何が?
キミのハミングが。
そうか、ハミングってもう何年も、
あるいは、何十年もしなかったかも知れない。


心がリラックスしたり、
幸せだったりしないと、
ハミングは出てこないものです。
だから、子供たちは、
自然とハミングするのだと思います。


ハミングではないけれど、
私は、昔、よく風呂で歌いました。
若いときにも風呂でよく歌って、
隣人から、母が、
お宅のお嬢さん、歌が上手ですねと
言われたことがあると言っていました。
風呂場で歌っていたのに、隣に聞こえていたのですね。
アルゼンチンでも、オーストラリアでも、
子供が小さかったときには、
一緒に風呂に入って、歌を歌いました。
決して、幸せばかりの生活ではなかったけれど、
子供と一緒に歌を歌っているときには、
幸せだったような気がしています。


VICTORIA DE LOS ANGELES
の、歌の翼。
まだ聴かれたことがない方はぜひ聴いてみてください。
心が歌の翼に乗って、
美しい空を彷徨うことができます。保証。

1982年4月2日



日本では恐らくフォークランド諸島と訳されていたと思います。
ふと、気がついたら、昨日は4月2日。
写真の灰皿は、このフォークランド諸島、つまりアルゼンチン人が
イスラス・デ・マルヴィナスと呼んでいた
マルヴィナス諸島を、アルゼンチンが占拠し、
イギリス系を追い出したことを記念して売られていた
ものでした。
私はこの1982年4月2日に、ブエノス・アイレスにいました。


当時は、軍事政権で、独裁者の
ガルチエリ大統領が、
疲弊する経済状態を隠そうと、
軍事行動を起こし、一時的に
国民の支持を得ようとしたのでした。
まあ、どう考えても、マルヴィナスは、
アルゼンチンの近海にあり、英国領と
いうのは、ちょっと無理があります。
娘が行っていた幼稚園では常に
国歌斉唱が行われ、マルヴィナスの
歌も歌われていました。
あの島は長い間、アルゼンチン人が
「失われた妹よ」と歌い、恋焦がれていた
島でした。


サッチャーの時代です。
英国は、軍艦も出し、島に特殊部隊も出動
させていました。
英国は、アルゼンチン本土も襲ってくると
いう噂がたち、ブエノス・アイレス爆撃に
備えて、私たちは、蝋燭を用意していました。
この戦争が始まったすぐに、
イギリス人から来ていた友人が、夜電話をかけてきて、
会ってさよならがいえない。今晩急に
発つことになったから。長く話も出来ない。
盗聴されている可能性もある。
..........
続いて、アメリカから来た友人夫妻も、
急遽、アルゼンチンを出奔しました。
日系のアメリカ人で、日頃から「私は日本人嫌いよ」と
言っていましたが、彼女は私にはとても
優しくしてくれました。英語の仏典をプレゼント
されたこともあります。
彼女とご主人はCIAだったのではないかと
噂が立ちました。


当時は、毎日、ラジオで番号が読まれていました。
これは徴兵の番号です。
母親達は、自分たちの息子の番号が
呼ばれないように祈りながら、ラジオを
聞いていました。
悲しい話もたくさんありました。
知人の話でス。二人の息子が徴兵された。その二人の
乗った船が、英国に撃沈されてしまった。
..........
そして、うちの娘の面倒をみてくれていた
ノーラの息子もついに徴兵されました。
彼女は未亡人で、娘と息子がいました。


彼女は病気になりました。
最初は、心労かと思ったのですが、
実は、深刻な病気だったので、
戦場に送られた息子は、
返されました。彼は、パタゴニアに駐屯して、
マルヴィナス島に送られる寸前でした。
息子が戻ってすぐ、彼女は亡くなりましたが、
息子は助かりました。
私は、彼女が、自分の命の代わりに息子を
救ったのだと感じました。


街角で千人針ならぬ、千人編み物を
している女性達がいました。兵隊達に
セーターを送ろうというのです。
毎日テレビで、「勝っている」アルゼンチンの
ニュースばかりでした。
...........
国民は飢えていましたが、
戦争は一時、彼らの心に希望の灯をともしました。
灯はすぐ消えて、アルゼンチンは降伏しました。


私は、あのときのアルゼンチン人たちの、
心の高揚と、大きな失望感を忘れることが
出来ません。
戦争が起きる数日まで、
カサ・ロサーだ(ピンクの宮殿)と呼ばれる
大統領官邸に向けて大きなデモがありました。
そのデモに向けて警官隊はガス弾を発砲し、
多くの人が逮捕されました。
私は、アパートの上からそれを見ていました。
...........
そして、数日後、戦争が起きました。
今度は、政府を支持する大きなデモがありました。
反政府。そして、今度は政府支持。
.........
アルゼンチンの人々の混乱した気持ちが
伝わってきました。



1982年。4月2日。
地球の反対側、アルゼンチン、ブエノス・アイレスで、
私も、未婚のまま子供を抱え、先が見えずに、
大きな失望感を持って暮らしていました。


No Regrets!

この年になると、色々考えます。
そして、最後には、考えてもどうにもならないことが
多すぎることに気がつきます。


仕事のこと。
自分で会社等創らなければよかった........
人から給料をもらっている方が楽だったかも。
会社が儲かっているときにもっと貯めておけばよかった.......
儲からなかったのは、いつも、人を雇っていたから。
人を雇う必要があったのかどうか、それだけのビジネスが一体あったのか、
彼らは会社にビジネスを持ってきたのか。

ついには、日本だけを市場とせず、
オーストラリアを市場としていたら、
今頃、悠々自適だった...........?
英語のことわざに、
Don't put all your eggs in one basket
全ての卵を1つの籠にいれるな.......
ってあります。つまり、リスクヘッジをしておきなさいって
ことですが、それをしてこなかった。


でも、どう考えても、今頃それを後悔しても
全く始まらないと考え始めました。

後悔というのは正直、病気のようなもので、
し始めるとどんどん深くなってしまいます。

さかのぼれば.....
若い頃までさかのぼって、
あんなことしなければよかった、
こんな風にすればよかった。
と、ヘタをすると、小学校の頃まで
さかのぼってしまいます。
と、こんなことに気がつきました。
もし、私が、若いころ、
もっと、ちゃんとしていたら、
オーストラリアに来る事はありませんでした。
馬鹿な男を追ってアルゼンチンまで行く事はありませんでした。
ということは、彼との間に出来た娘は存在
しなかったことになります。
オーストラリアに来ることもありませんでした。
とすると、私は今の主人とめぐり合うこともなかった。
下の娘も生まれなかった。
愛犬サリーがうちに来ることもなかった。


ナイナイ尽くしで、オーストラリアに住んでいるけれど、
優しい家族がいる。オーストラリアにも日本にも。
本当に親切な友人達が、
日本にもオーストラリアにもいる。
今、そうした人々と新しい仕事を創りだそうと
している。
だとすれば、もしかして、後悔する必要はないのでは
ないでしょうか。


後悔はしても始まらない。
今ある状況の中で、
いかに幸せに生きていくかを考えよう。
幸せな状況をヴィジュアライズ。
幸せな気持ちになれる人たちとコネクト。
そうなんだ。
後悔って、過去と、現在と、そして未来をも
否定することなのかもしれない。
悲しいこともあったけれど、楽しいこともあったじゃん。
そうなんだ。


“I have no regrets in my life.
I think that everything happens to you for a reason.
The hard times that you go through build character,
making you a much stronger person.”

私は私の人生を後悔していない。
それは、自分の人生に起きた事は全て
それなりの理由があった体と思う。
大変な時は、それを潜り抜けることで
自分というものを創っていく。
大変な時があってそれを潜り抜けたからこそ、
私は、より強い人になれるのだと思う。

と書いた人がいました。


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