週末、クインズランド州政府の選挙がありました。
2期続いた労働党のアナ・ブライ政権に終止符が打たれました。
しかも、労働党議員がほとんどいなくなるという結果を残して。
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クインズランド州は、もともと保守党が強い政権で、
ジョー・ビヨキピーターセン首相が長い間、保守王国を
築いたあと、労働党政権になり、それが、短期間また保守になり、
それから、暫くアナ・ブライ元首相の前任者が3期勤めて
いました。労働党政権がかなり長く続いていたのです。
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私は、1995年ぐらいから、クインズランド州の政府と共同で
競馬の学校を開いていましたから、この政治の波に
かなりもまれました。創立当時は、労働党、その後、
すぐに保守党。そして、また労働党。政権が変わるたびに
学校が政治の紛争に巻き込まれました。
保守党の政権とスムーズに仕事をしていたときには、
私が、まるでクインズランドのサクセスフルなビジネスを
他州に売り渡そうとしているなどと、当時野党になった
労働党議員に、あることないことを議会で言われたほど。
そして、今度労働党になり、その学校を私が辞任して、
隣の州のNSW州の民間の競馬学校に移ったときには
労働党政権下にいた競馬関連の公務員たちが、
日本にまで私の悪口を広め、名誉既存行為にでました。
まあ、その政権の下で働いていた官僚が、私をもともと、
彼のファミリーのビジネスに巻き込もうとして、私がそれをNOと言ったことが
きっかけでしたけれど。
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さて、私はクインズランド州に戻り、3番目の民間の競馬学校で働き始め、
成功し始めると、政府からまた様々なインターフィアレンスが出て、
もう、潰れかけていた自分達の州立の学校の生徒には出すけれど、
私たち、民間の学校の生徒には、騎手免許を出さないとか、様々なひどい阻害行為をされて
我々の学校は、州政府を裁判にまで持ち込んだほどでした。
うやむやになり、結局阻害行為は止まりました。
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それらの人と一緒になっていて、クインズランド州の競馬をほぼ、1人で
仕切っていた人間が、昨日辞任しました。というより、彼を含めて多くの
公務員が首を切られたと聞きました。
私に当時、名誉既存行為をした人間は、この辞任した人間と組んでいました。
でも、彼は、今回の選挙の結果を知りません。
聞いても理解できないと思います。少し前に、認知症で病院に入っていると聞きました。
これで、あの頃ぐるになっていた二人は、表舞台から完全に消えたのです。
保守党になったときに、私は当時、競馬大臣(オーストラリアにはそんな
大臣がいます)に、その公務員の悪事を伝えましたが........
今でも、覚えています。
保守党の大臣の秘書から電話があり、悪事を露呈した書類は全て焼却する
ようにと指示されました。野党に関わる悪事なのに、正しいことを表にださなかったのです。
恐らく、自分も、いつか、そんなことをするかもしれないと思ったのかも知れません。
まあ、同じアナのむじな。かな。
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長い間、独裁を誇った(といわれている)その人間が辞めて、クインズランドの競馬界には、
大きな拍手が起きたというニュースが報道されました。
これから、保守党政権になって、しかも、恐らくこの保守党政権は長く続くだろうと
言われており、とすると、また、水が澱んでしまう。
この繰り返しなのでしょうか。
............
もっとも、日本の国政のように目まぐるしく変わるのもどうかと思いますが。
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長く生きていると、色々なことがありますね。
今、私は州政府が絡んでいる競馬学校に
対抗してできた民間の学校で仕事を始めました。
願わくば、その州政府の絡んでいる学校から
阻害行為がないように。
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今日のシドニー湾。ノースシドニーから。
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あれは、私たち団塊の世代からでした。
「ながら族」
当時は、主に、ラジオを聴き「ながら」でした。
ラジオを聴きながら受験勉強をしていたのでした。
しかし、今は、「ながら族」だらけ。
ほとんどが、「携帯しながら族」
日本でもオーストラリアでも。
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今日もバスで出かけました。
主人が仕事を外で始めてからは、
アッシーがないので、
あっしが、自分で「輸送手段」を探さなければ
なりません。
オーストラリアには、日本のようなスーパーエフィシャント(効率のいい)な
公共交通はありませんから、車でなければ、
1時間に1本あるかないかの、「のんびりした」バスの旅。
あるいは、電車の旅。
緑が見える。花が咲いている。
ああ、いいな、と思っていると、
突然話し声。そう、誰かが、携帯で話をしています。
★
今日は、来月シドニーにやってくる観音山フルーツガーデンや、
フルーツアートクリエーター協会の方々をご案内するために、
ホテルの確認をしてきました。レストランの点検も。
久しぶりに、ノースシドニーにやってきました。
このノースシドニーは、私が、ジェットアバウトという
カンタスの子会社に勤めていたときに働いていた場所。
私が最初の会社を作ったときに事務所をオープンした場所。
懐かしい場所です。ちょうど、ブリッジを渡って、
市内の中心街の反対側にあります。
今日は、とてもいい天気で、ホテルから眺めるシドニー湾は、
いつにもまして、綺麗でした。ああ、皆にもこんな美しいところ
みてもらいたい。ホテル近辺を歩き回っていると、
突然声が聞こえます。前を歩いているおねえちゃんが、
大きな声で独り言。。。。ではなく、携帯で話をしているのです。
まあ、良くある光景ですけれど。
★
バスの中から他のバス停に並んでいる人たちをみたら、
ほとんどが携帯を使っていました。スマホ。いじっている。
やっぱり、おかしくなっている。私たち。
生きるって、その場を一生懸命生きるってことじゃない。
One a a time!
その場やその時って、一生のうち、それしかないんじゃない?
だったら、ながら族やめない?
と、ついつい、バス停で、必要ない電話をしようとした私自身を
いさめました。何も、バス待ちながらしなくてもいいのよね。
でも、手持ちぶさた...........のように錯覚して、
手元にある携帯を使ってしまう。
電話なかったでしょうが。昔は。
電話あっても、持ち運びできなかったでしょうが。
携帯して歩くほど、緊急のことって、そうあるもんじゃない。
でも、心配で携帯してしまう。
私たちは、少し、精神的な病に罹っているかも知れませんよね。
世界中、みんな。
One at a time!
テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報
お代官様こと下の娘。
私は彼女が生まれる日まで働いて、
彼女が生まれてきて、2週間目には
仕事に戻っていました。
当時は、私のビジネスも順調だったので、
ナニー(メリー・ポピンズのような)を雇って、
彼女に家に来てもらって、娘の世話をしてもらっていました。
会社に娘を連れてきてもらい、
2時間ごとにおっぱいをやっては、仕事を
続けていたのです。
その後、彼女が年少組みの幼稚園に入るようになり、
あとは、ほとんど
主人が彼女を育ててくれました。
★
もし、主人が私の会社に勤めておらず、
本来のエンジニアの仕事をしていたら。。。
彼女も、上の娘も、ほとんど他人に預けたまま
育っていたのだろうと思います。
ちなみに、上の娘は私が主人と結婚するまで
人に預けながら一人で育てていました。
色々な人の手に。
私の見てないところで、彼女は、辛い思いを
していたようです。
彼女はそれが嫌だった。。。。と、
後で知りました。
長じて、彼女が様々に精神的な問題を抱えたのは、
そうした、たらい回し生活を強いた、
私のせいではなかったのかと思っているのです。
★
主人に育てられた下の娘。
その彼女が、クリスマス前に
私たちにボーイフレンドを紹介してくれました。
正直、イメージとは違って、ちょっと驚きました。
クリスマスの時には、娘達と彼女達のボーイフレンドどうしが
話して、私たちとは、あまり、話もしませんでしたから、
あまり彼のことが分かりませんでした。
でもまあ、娘が幸せでいるなら、と思っていました。
★
この前、娘が、彼女の仕事の合間にうちに来てくれました。
初めて、ゆっくり(私はほとんど家にいないので)
彼女がボーイフレンドの話をしてくれました。
彼は、ちょっと言葉では言えないほどの苦労を
子供の頃からしており、しかも、虐待から逃れて14歳で
家を出て、それから、ずっと1人で働いてきたのだそうです。
なのに、彼は、社会や世間に対して、全く恨みをいだかず、
今の仕事で高い評価を受けて、頑張っているのだと説明してくれました。
★
彼女は言います。だから、「私が持っている悩みなんか、彼に比べれば
全く埃のようなものだと思っている」。。。。
でも、彼は、それぞれの人たちはその環境によって異なる悩みがあるのだからと
言って、私の悩みもよく聞いてくれると、娘は言いました。
あんなに、ひどい仕打ちを受けた社会や家族に対して、
恨みを持っていない彼を、とても尊敬している。
彼は私を深く愛してくれているし、
私も彼を愛している。
彼はほとんど学校に行っていないが、彼ほど、優秀な人はいない。
学校に行っている私が、時々、馬鹿に思えるほど、彼は聡明だ。
..................って。
★
私は、娘を育ててくれた主人に感謝しました。
彼女を、このように、正しい見方が出来る人間に育ててくれたことを。
.................
地位や学歴や見かけて人を判断しない。
若いうちは、どうしても、物質的なものを追いかけるから、
例えば、お金やステイタスが輝いて見えることがあると思う。
(もっとも、私はなかったけれど)
だから、お金のために、自分をコンプロマイズ(妥協)して
しまうケースが多い。
でも、彼女は、
学歴にも、みてくれにも、金にも目が眩まなかった。
.................
長い人生なので、彼女と彼が、
このまま一生一緒にいるのかどうかは分からない。
しかし、今の気持ちを大切に、末永く一緒に幸せであるように。
★
繰り返すようですが、
私は娘をこんな風に「ちゃんと」育ててくれた主人に感謝し、
「ちゃんとした」見方ができる娘を
誇らしく思います。
とりあえず、人生、これで一安心。
月曜日にシンガポール経由でシドニーに戻りました。
体の調子を崩しています。気管喘息だと思います。
持病のようなもの。
★
さて、シンガポール航空は、私本当に大好きです。
このエアライン、皆に人気なせいか、
航空券も安くなりません。今回も、
旅が近づいていたせいか、片道で10万円もしてしまいました。
でも、英語で言うと、worth it! つまり、その価値だけあるんです。
何があるかというと、サービスの良さはもちろん、
私にはエンターテイメントですね。
朝6時の飛行機で眠かったはずなのに、
世紀の悪漢、Jエドガーと、My week with Marylyn
(マリリンとの一週間)。そして、さすがに、途中寝てしまいましたが、
今をときめくAdeleがロイヤルアルバートホールで開催したドキュメンタリー。
全部良かった。
そして、シンガポールからシドニー。
これも眠かったのに、
スペインの、Mar Dentro (内なる海)を観ました。
深い意味を持った映画でした。
★
Mar adentro(内なる海))は、日本のタイトルは、『海を飛ぶ夢』。
2004年製作のスペイン映画で、アカデミー賞外国語賞もとっていました。
25歳の時に頸椎を損傷し、以来30年近くものあいだ全身の不随と闘った実在の人物、
ラモン・サンペドロの手記『地獄からの手紙』
(西: Cartas desde el Infierno; 1996)をもとに、
尊厳死を求めて闘う主人公を描いたドラマでした。
★
彼の周囲の人たちの愛。
それを知りながら、尊厳死を求めるラモン。
彼の尊厳死の裁判のために立ち上がった
女性弁護士。彼女の病気。
彼女の尊厳死の希望。ラモンは希望は叶ったが、
彼女の希望は叶わない。
たくさんの、回答のない問題がそこには提示されていました。
★
子供の頃の映画で、ずっと心に残っているのは、
母に連れられていった「野ばら」。
ウイーン少年合唱団のことだったなあ、ぐらいにしか
覚えてなかったのですが、あの美しい歌声が、今も心に残っています。
調べたら、ハンガリー動乱の際、オーストリアに逃れてきた孤児の少年が、 ウ
ィーン少年合唱団員となるまでの心温まる物語だといいます。
★
これも、母に連れて行ってもらってみた「菩提樹」
これも音楽一杯の映画。子供の頃から、こうして、母に、
素晴らしい音楽を聴かせてもらっていたのでした。
この映画が後年、「サウンドオブミュージック」に
なりました。
これは、西ドイツの1956年の映画だといいます。
ということは、私が7歳のとき。戦争に敗れたドイツから
戦争に敗れた日本に来て、人々の心を慰めてくれたのですね。
考えれば、生活に、音楽があふれていたような気がします。
母も父も音楽好きでした。
★
他にも、日本映画「愛と死を見つめて」にも連れて行ってもらったことが
ありますし、一緒に母と観た映画では「予期せぬ出来事」も、心に残っています。
母と一緒に観たのかどうか分かりません。
多分中学校で行ったのだと思いますが、ロシアの「ハムレット」
そして、「アラビアのローレンス」
それぞれに、私の人生を彩り、人生に大きな影響を与えました。
私の人生感を大きく変えたのは「アラバマ物語」。
★
内の主人の最も好きな映画は「HARVEY}です。
今回、アマゾンで買って、主人に持ってきました。
主人が言います。
もし、宝くじが当たって、新しい家を建てるとすれば、
ジェームス・スチュワートが、ハーヴィーと一緒に座っている
べランドのある家がいいなって。
60歳になっても、主人には夢があります(苦笑)。
「ハーヴィー」まだご覧になってない方はぜひどうぞ。
とても、いい映画です。
★
もうすぐ、3月11日。
多くの亡くなった方々へ黙祷を捧げます。
最初にシンガポールに来たのは、かれこれ30年近くなります。
アルゼンチンからオーストラリアに移住して、日本に最初に
里帰りした時でした。
娘が、ホテルの大きなベッドに「お母さん、5人ぐらいは練られるわね」と
大声を上げて、ベッドの上でひっくり返っていました。
動物園で「オランウータンと朝食」も。
それから、競馬に携わるようになり、まだ競馬場が
今の競馬場に移転したばかりのころ。
あれから、シンガポールは見る見るうちに進歩して、
見違えるようなコスモポリタン国(町)になりました。
今日は、今夜の飛行機の時間を待って、珍しく時間があったので、
1人で川岸を散歩。リバークルーズに乗りました。
★
クルーズでシンガポールの昔をナレーションしていました。
ナレーターはオーストラリア人。
クルーズに乗ったのは、フランス人、オランダ人、
オーストラリア人も。
シンガポールのNow & Then を思い出しながら、
風に吹かれてきました。
★
最近のシンガポールを、世界のサクセスと呼んでいる人が
多いとおもいます。あの、大阪の橋下さんも、そういったかな。
では、何がシンガポールのサクセスなのでしょう?
成功裏に世界中の人を集め、彼らが住みやすいように、
彼らが、快適に過せるようにした。ということだとおもうのです。
彼らがビジネスをしやすいように。持ってきやすいようにした。
昨日の晩、シンガポールの「牛角」にいきました。
そこで、見たのは、日本の「和」とか日本の「もてなし」を、
コスモポリタン化した、見事なまでのバランスでした。
単に「日本風」に作ればいいのではないのです。
日本を表しながら、日本人だけでなく、世界中からきた
クライエントに喜んで貰える食事、雰囲気。
そして、スタッフの生き生きした動き。笑顔。
どおりで、成功しているのだとおもいました。
★
今日は、久しぶりにゆっくり起きたので、
ブランチは、ホテル近くのイタリアンレストランで
とりました。
川を見ながら、コーヒーとパスタ。
ゆっくり時が流れました。顧客はヨーロッパ人から、インド人。
道路で子供たちがローラースケート。笑い声。犬との散歩。
ジョガーのほとんどは西洋人。まあ、オーストラリア人も西洋人に入れるとすると。
★
私はシンガポールの全てが好きなわけではありません。
私にとっては、マテリアリスティックすぎる。
......私がもっと若かったら、
そんな風には考えなかったかもしれませんけれど.......
ここでは、英語が出来て学力がある人は、上にあがるけれど、
しかし、彼らは、下の人たちと、その富や豊かさを
シェアをしているようには見えません。
シンガポールのことをそれほど知っているわけでは
ないので、間違ったらごめんなさい。
私が単に、感じたことを話しているのです。
★
下の人たちは、ものを考えない。
ホテルもレストランでも、話半分。
答えも半分。
「一番近いショッピングセンターは?」
「オーチャードロード」
「歩いてどれぐらいかかりますか}
「10分。タクシーで10分」???
別の人の答え、「歩けば20分」
そしてもう1人の人の答え。
「川を渡ったところにショッピングセンターがあります」
ということで、橋の下のウオークウエイを渡って5分で着きました。
前に動物園に行ったときもそうでした。
5人に聞いたら、5人が、全く、違うことを言ったのです。
「分かりません」と言ったらいいのに。
★
おっと、今日のボートでもそうだったな。
ボートの外にたら、
但し書き。「天候の悪いときには、中にお入り下さい」
と書いてあった。それ、当たり前。別に書かなくていい。
工事現場に、日本と同じサイン。「ご不便をかけます」
つまり、何か一つ一つ言って、指示しないと動かないのだろうな。
★
シンガポールの子供に、将来何をしたいって、聞くと、
お金持ちになりたいって言ったと聞いたことがあります。
物価がめちゃめちゃ高い。それにしてがって、「貧富の差が大きくなった」って
昨晩、こちらに長く住んでいらっしゃる「ひろさん」に伺いました。
そういえば、彼は、私と似ていて、海外生活30年以上。
私たちが、日本を出たのは、
日本に原子力発電がなかった頃。
昔の日本人が、ブラジルやペルーやアルゼンチンや、世界の隅々まで
出かけて移り住み、世界に貢献したこと。日本人の「かつて」のパイオニア精神について、
大いに語り合いました。そして、今の日本の状態に、ため息をつきました。
★
タクシーに乗ったら、皆、ピカピカ。
前に来たときは、オンボロの車だけだったのに。
中国系のドライバー。
ナットキングコールの、
If you love me now,
it will be forever..........♪ ♪
が、流れていました。Nice music! と言ったら、
年取ると昔の歌がいいよねって。Agree!
さてと、パッキングして、今晩、シドニーに戻ります。
ああ、早く家に戻りたい。
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