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ようこそ!ハイランド真理子のブログです。

日豪の間を行ったり来たり。膵臓のないアラエイト。仕事もフル回転。

私の人生と音楽 その2

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No Music No Life 音楽がない人生は考えられない。

私の学生時代は、いわゆるフォークソングがはやった時代。
アメリカからも多くのフォークソングが入ってきた。
英語が特別にできたわけではなかったが、音楽そのものを聴きながら
英語を勉強したと思う。

高校生だった弟はギターが好きだった。彼とは、性格も違うし、
弟は、まったくなー、変な姉貴をもっちゃったよ。なんて思ってたかもしれないが、
二人とも、音楽が好きだった。
弟と、アメリカのフォークソングを歌った。

パッフ・ザ・マジック・ドラーゴン。。リブバイザシー。。
マイケルローザボートアショワ。。
ホエアザフラーワーズゴーン。。ロングタイムパーシング。。

ピーターポール&マリーは、私たちの大好きな曲だった。

私の子供のころには、ソノシートと言われるプラスチックのレコードがあった。
普通のレコードよりも安かった。

母が買ってくきてくれた、アンディー・ウイリアムや、パット・ブーンのものは
タイトルも含めて覚えている。アンディ・ウイリアムスのムーンリバー。パット・ブーンのラブレターインザサンド。

彼らはハンサムで(今はそう思わないが。。苦笑)、大学を出て、美しい家族をもって。。
アメリカは憧れの国だったので、彼らの生活も、彼らの歌も、私に夢を与えてくれた。

そうそう、一緒に歌ったといえば、父が口ずさんでいたのは、雪の降る街を。。。内村直也作詩。中田喜直作曲
エキゾチックな顔をしていた高英男が歌っていた。父の声は、男性にしては優しく高い声であった。
父は、城ケ島の雨も大好きだった。もちろん、私も。。
誰が歌ったのか覚えていなかったが、調べてみたら、藤山一郎。
そういえば、父の声は、藤山一郎に似ていたかもしれない。歌詞は、北原白秋。どうりで素晴らしい詩だった。

雨は降る降る  城ケ島の磯に
利休鼠の 雨が降る
雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍びなき

父は、この歌を全部歌っていたような気がする。

私のこころと身体の中には、ほんとうに沢山の音楽が、歌が生きているのだと、
このブログを書きだして、あらためて思った。




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音楽と私の人生 その1

私と音楽はきっても切り離せない。
70過ぎの今まで出会った音楽のことを書けば、
それだけでも一冊の本になってしまうほどだ。

私は、なぜ、音楽に囲まれていたのか。
なぜ、音楽と私の人生は切ってもきれないのだろうか。
それは、子供のころからいつも様々な音楽に囲まれて暮らしていたからである。

別に音楽家の家に生まれたわけではなかったが。
父と母が音楽が好きだったこともある。
仙台という田舎にいたにしては、二人とも、ハイカラであった。

父は、手作りで昔電蓄といわれるプレーヤーを作り、
バイオリンのクラシックを聴いていた。
ハイフェッツのチゴイネル・ワイゼンが彼の大好きだった曲。
私も、この曲を聴くと、胸が熱くなってしまう。
父は、よく草笛を吹いてくれたことがある。
もしかして、城ケ島の雨。雪の降る街をだったかもしれない。
草笛の音は素敵だった。

父は8人兄弟の一番下だったので、一番上のおばさんの息子の敏お兄ちゃんは
、かなり私の年上だった。その彼は、ラジオや器械が好きな人で、
歌が好きだった私をかわいがってくれて、
「真理ちゃんの歌をレコードにしてあげる」と言って、私が歌ったものを
レコードにしてくれた。
歌は、忘れもしない。。。タヌキの赤ちゃん。
たんたんタヌキの赤ちゃんは、やっぱりおなかが大きくて、
ぽんぽこぽん、ぽんぽこぽん。。。自分の声をレコードで聴くのは不思議な気がしたものだ。
今でも人前で歌いたいと思うのはこのせいかも知れない。

母も音楽が好きだったのだと思うが、どんな音楽を母が好きだったのかは覚えていない。
私かはこれが好きだといわなかったからかもしれない。
ただ、彼女に連れていってもらった私の初めての洋画、菩提樹は、
確か、ウイーン少年合唱団の歌だったかもしれない。
彼らが仙台に来た時には、連れて行ってもらった。

彼女は、ダンスが好きだった。
小学校の教師だったが、フォークダンスも体育の授業で教えていたし、東北大学の生徒たちにも
ダンスを教えていた。
ある時、私に、真理ちゃん、素敵な人がいるのよ。
東北大学の学生で、酔っぱらうと、バラを抱えきれないほど買って、
夜の街を歩く人たちに歌を歌いながら配るの。
ああ、素敵な人だなって、子供心に思ったものだ。
そんな人に出会ったら、今でも恋をしそう。

母は、父と二人で、小さな家で、タンゴを踊っていたのを覚えている。
部屋をいくつか突っ切って、右から左にダンスをして動いていた。
タンゴは、藤沢蘭子が、当時は有名だった。
それから、何十年も経って、アルゼンチンに行ったときに、
タクシーの運転手から、RANKOは、元気かねって聞かれて、
父と母のことを思い出したものだった。

小学校で「大きくなったら、何になりたいですか」という作文を書かされた時に、
歌手になりたいと答えて記憶がある。なれなかったけれど。
今でもなりたい(苦笑)

私は、小学校に入り、東北放送の合唱団で歌い、
小学校の合唱団でも歌っていた。合奏団にも入って、
アコーディオンを弾いていた。
小学校の合唱団で、全国コンクールの宮城大会に
出たときに(何位になたのかは覚えていないけれど)、
あの時に歌った歌、秋は秋はくるよ。白い馬にまたがって。。まだ歌えるな。
鈴木先生の、タクトの動きも覚えている。鈴木先生が指揮をする合奏団では、
確か、、モルダウを弾いていた。
フォルテ。フォルテッシモ。先生のタクトが目に浮かんでくる。

中学校。キリスト教の学校。
毎日の礼拝。讃美歌。
大好きだった。こころをしずめて歌う讃美歌。
祈りながら歌う讃美歌が大好きだった。

考えてみれば、歌のない、音楽のない人生の瞬間は私にはなかったかもしれない。

アルゼンチンでの生活。
夢を求めてったはずのアルゼンチンで、私を待っていたのは、
暗くつらい日々。
自分で歌うことはなかったけれど、タンゴはまさに、私のあの時の日々を映していた。

愛。裏切り。

タンゴは、嘆きの音楽であった。


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私の人生と洗濯物の関係

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子どもの頃、まだ洗濯機がなかったころ。
洗濯桶に水を入れて、お祖母ちゃんが洗濯をしていました。
着ているものを、全部脱がせて、お祖母ちゃんはごしごしと
洗濯をしていました。
だから、私は、いつも汚れていない清潔なものを着ていたのです。

母はその頃、学校の教師をしていましたから、家で母が洗濯をしているのを
みたことはありませんでした。
後年、海外に仕事に行っていた父が日本に戻り、
相模原のダムの建築物の仕事をすることになり、
母は仕事を辞めて、私たちと一緒に八王子に越すことになりました。

八王子で、母は、慣れない主婦業を始めました。
裁縫の時間に母に手伝ってもらったら、
先生に提出するころには、縫い目がほどけていました。
もちろん成績は、最下位(苦笑)
母は、料理も、あまり上手ではなかったと思います。
というか、あまり覚えていないのですが。
その頃、洗濯機はあったと思いますが、母は、洗濯をして、やっぱり
小さな庭に洗濯物を干していました。あら、真理ちゃん、またこぼしたの?
と、いつも、食べ物をこぼす私がいました。

私が洗濯もので、はっきり覚えているのは、お祖母ちゃんがごしごしと洗って
いたこと。さお竹ー、さお竹と、売りに来た竹竿屋さんから買った竹竿に、
お祖母ちゃんは洗濯物を干していました。
となりとの間がほぼなかった長屋のような小さな家の
わずかなスペースに、洗濯物を干す。
よくそんなことができたものだと。。

私は、未婚で子供を産むことになり、東京の渋谷の病院で
子どもを産み、迎えにくるからという娘の父親を信じて、
東京のマンションで、彼を待っていました。

その頃は、まだ紙のおしめはなく、毎日、子供のおしめを洗っては
屋上に干しにいきました。
彼が迎えにくる。と信じながら。毎日毎日洗っては干していました。
空を見て洗濯物を干すと、希望と勇気が湧いてきました。

結局、彼は迎えにこずに、切符を用意して、私は、アルゼンチンにいくことになりました。

でも、洗濯物を干すという作業は、私は大好きです。

シドニーの青い空に向かって、洗濯物を干す。
毎日でも私はしたい。


ずいぶん前のことですが、日本のヘルスケアにかかわる方々にセミナーをオーガナイズしていたころ、
アルツハイマーのケアハウスに行くことがありました。
アルツハイマーの患者の中には、毎日洗濯物をたたむ人たちがいます。
音の出ないピアノを弾く人たちもいました。
動かない車を運転する人もいました。

それをみて、私は、私が、もしかして、アルツハイマーになったら、きっと洗濯物を干しているなと思いました。

洗濯をして、それを干して、取り込んでたたむという行為は、私にとっては、私の人生を表している一つの作業です。

 ナンバーツーであることの苦しみ

先日、岸恵子の「わりなき恋」という小説を読みました。
わりなきという意味が分かりませんでしたが、
つまり、理屈では割り切れないという意味かな。と思いました。

この本は、もうすぐ70歳になろうとする女性が50歳代の男性と恋をするのです。
読みながら、わかるなあ。でも、つらいなあ。と思いました。

私は、いわゆる不倫を若い頃にいくつかしました。
その時は、好きなだけで、ただ恋と性愛に燃えていたと言えます。
今になってみて、更に分析すると、恋をしていたわけでもありませんでした。

なぜなら、そんなに素敵な男性たちではなかったからです。
ただ、私は普通の女性になりたくなかった。
人と違う女性になりたかった。
それだけの理由で、いわゆる、常識から外れた行為をしたかったのではなかったのかと、
70歳を過ぎた私は考えます。

不倫というのは、まあ、仕方のないことだったかもしれませんが、
結局は、その男性の家族を苦しめ、
もっと、悪いのは、自分が常にナンバーツーであることに苦しむことです。

私が、未婚で産むことになった娘の父親は、外国の総領事でした。
総領事だから、好きになったわけではありません。
しかし、彼から、大切にされたことは確かです。

毎日、総領事館からかかってくる電話。
おはようございます。総領事にお電話を替わります。

彼とまだ付き合ってなかったころ、イベントに出てくれたお礼をしに東京にいきました。
六本木の地下にあるレストランで、食事と会話の後に、
彼が無理やりキスをしようとしました。

胸がドキドキして、私はそういうことを望んておりませんと、幼稚な英語で答え、
店を飛び出しました。
そのまま分かれて、翌日仙台に戻りました。

翌日、仙台の自宅に、電報が届きました。
本当に失礼なことをしてすみません。
そして、それから、花束が何日も届きました。

それから、東京にもう一回出たときには、
私はすでに彼の腕に抱かれてしまいました。
六本木にあったホテル。そこを訪ねるときも
彼は花束を忘れませんでした。

そうして、少しずつ、私は、不倫の道を辿ってしまっていたのです。

まあ、この話は、結局、子供を産むことになり、
アルゼンチンまでいき、
結婚すると言っていた彼の言葉はウソで、
と、ながながと続くのですが。

最初の出会いはともかく、
彼との付き合いの中で、もっともつらかったのは、
私が、彼のナンバー1ではなく、あるいは、オンリーワンではなく、
いつもナンバーツーだったこと。

私はラッキーにも後年、オーストラリアで結婚することになりましたが、
結婚してほしいと言われたときに、
私の条件はただひとつ。
彼に誰か好きな人ができたら、かならず言ってほしい。
私もそうするから。

あれから36年。夫婦ですからいろいろありますが、
主人は私のナンバーワン、そしてオンリーワン.
私も主人の、オンリーワン.ナンバーワンかどうかは、まあ聞いてみないと(苦笑)

不倫をしている人がいれば、私はこう言います。
やめなさい。

一人で寂しい?二人でいても、自分がその人のオンリーワンで、ナンバーワンでなければ、
意味がありません。
自分だけのオンリーワンになった方が幸せ。自分がナンバーワンになった方がずっと幸せ。

State of Mind...心の持ちよう

昨日、サリーと公園を散歩していたら、何年も前に、奥さんとともに、仲良くしていた
男性にあいました。名前?忘れています。奥さんの名前はジル。

当時彼らには、年老いた犬をがいました。
私が散歩する道筋に彼らの家があるので、
私は、前のサリーと一緒に、時々、立ち寄っていました。奥さんは昔コピーライターだったらしく、
話がとても面白かった。あ、私も昔はコピーライターでしたね。

あれから何年経ったでしょうか。5年ぐらいかな。もっとかしら。
いずれにしても、その間、私も癌を患ったり、いろんなことがあって、
最近は、彼らの家に行くことはありませんでした。

昨日は久しぶりに公園を散歩していたら、彼と、彼の新しい犬にあいました。
あ。。
元気?元気?
二人で、ちょっと離れて挨拶。
あのね、今日で、ジルが死んでから3年目なんだ。
まあ。。
5つも部屋があるんだ。そこに僕一人で住んでいる。
家が大きすぎるな。ほんとに。

で、あなたは元気?
色々あるけれど(私も)、まあ元気かな。
僕はもうすぐ85歳になるんだ。
あれ、そんなに年にみえなかったんだけれど、そうなのね。
でも、私ももう70歳すぎるのよ。

彼は言いました。犬と散歩すると、曲がった腰もピンとしてくる。
ピンンとしないとね。腰曲がった爺になりたくない。笑。

それにしても、私たち二人とも、犬に救われているわね。
犬がいるから、歩かなければならないし。責任もあるし。
そうだよね。お互いに犬がいるから、もう少し元気でいなければ。

そうそう、ほんとは僕、今頃日本に旅行しているはずだったんだ。
キャンセルしたけれど。
彼は残念そうにいいました。
そういえば、彼らは、日本が大好きだった。昔日本人の学生をホームステイさせていたって。
とてもいい学生だった。。彼らの家には、日本人の学生が
日本に戻って送ってきた日本の絵が飾られていました。
彼が近い将来日本に行くことができますように。

彼と別れてから、そういえば、かなり前に93歳の若々しい女性と、バス停で会ったことを
思い出しました。彼女は、とても素敵にしていました。60歳代にしかみえませんでした。

その彼女にバスの中で、ちょっと失礼だタけれど、いくつなのかと聞いたら、驚くことに、93歳でした。

どうしてそんなにお若いのですか?
そうねえ。90歳まで働いていたせいかな。
90歳まで、ドッグシッターをしていたの。家に5匹も犬を預かっていたのよ。
大したお金じゃなかったけれど。笑。

そうね。それから、state of mind 気持ちの持ちようかしら。
と、彼女。

考え方次第で、年をとったり、若くなったりするのです。
自分が若いと思えば若くなれるし、自分は年をとっていると思えば年寄りになる。

そっかあ。
私はまだ若いんだ。
よね?
ところで、写真はすでに天国に行って、私の来るのを待ち焦がれているサリーNO1です。今のサリーはニューサリー。


サリーNO1